都立墨東病院の妊婦死亡事件について考える/産科医 竹内正人 takeuchimasato.com

「都立墨東病院の妊婦死亡事件について考える」

〜人間的ケア(ヒューマナイズドケア:humanizes care)視点から〜
2009年3月20日 THCCセミナー 東峯ヒューマナイズトケアセンターにて

突然飛び込んできたニュース

 2008年10月22日夜7時、テレビをつけると「7医療機関で拒否、妊婦死亡=脳出血、1時間たらい回し、東京」のニュースが飛び込んできました。

 さかのぼること2週間前、10月4日(土)に36歳の妊婦が突然に激しい頭痛を訴え、かかりつけ医の五の橋産婦人科(江東区亀有)を受診したそうです。五の橋病院の医師はそのあまりの痛がり方に、脳出血の可能性も考え、地域を管轄する総合周産期センターである東京都立墨東病院に搬送を要請しました。ところが、墨東病院は産科医不足で、週末の当直医が一人であるという理由で、この依頼を受けることができませんでした。五の橋病院の医師は、その後、6施設の医療機関に電話をかけました。それでもダメで、再度、墨東病院に連絡し、ようやく搬送を受けてもらえました。その3日後の10月7日、妊婦は亡くなったというのです。
 私は現在、五の橋産婦人科と同じ江東区にある産婦人科クリニックに勤務していて、墨東病院には、母児の緊急搬送を受けてもらっています。今のクリニックに勤務する前は、10年以上にわたり、葛飾赤十字産院という、搬送を受ける側の地域周産期センターに勤務していました。さらに、墨東病院の産科スタッフの上層部とは、同じ大学医学部の同窓という関係にもあり、一体真相はどうなのだろうと、テレビ画面に引きつけられました。

 画面は同日昼に都庁で行われた記者会見の様子にかわりました。何本ものマイクが置かれたテーブルを前にして、都病院経営企画部部長が頭を下げています。この類の出来事で何度も繰り返し使われるあの絵です。ただ、部長が、誰に対して、何を謝罪しているのかが、よく伝わってきませんでした。仮にこれが会見の冒頭の儀式的な意味合いの礼であったとしても、この絵を見ただけで、視聴者は医療側の不手際で、妊婦の命を奪ってしまった、と思うのだろうなと思い、テレビを見ていました。
 説明をしている部長の横には、関係者が並んで座っていました。その中に、大学の1年後輩である、墨東病院産科部長の姿を見つけました。「当初、脳出血を疑う説明はなかった」の都幹部からの説明のあと、「もし、脳出血とわかっていれば・・、最初の要請で搬送を受け入れたと思います・・」という趣旨の彼のコメントが流されました。歯切れが悪いのはこの場では仕方がないでしょう。ただ、これは彼本心の言葉なのだろうか。それとも組織を守るため詭弁なのか・・・。とても不自然に感じました。コメントの一部が恣意的に切り取られたのではないのかなとさえ、思いました。

 画面はスタジオに切り替わりました。キャスターは、そんな私の疑問などお構いなしに、怒りの表情、確信めいた強い口調で、「大都会の東京でも、あってはならないことが起こってしまった」「奈良での脳出血による妊婦死亡の教訓が全く生かされていない」「直ちに都立病院に産科医を補充すべきである」「このようなことが二度と起こらないように、抜本的なシステムの改善が必要である」と、一様に行政、医療、現場の医師への非難をまくしたてていました。

メディアに対立構造に仕立てられてゆく

 22日の夜9時、五の橋産婦人科の院長とその時の女性担当医が、都の会見に応じたかたちで、病院で記者会見を開き、その模様が11時のニュースで流されました。テーブルには、沢山のマイクがならび、報道カメラのフラッシュが一斉にたかれていました。押し寄せるメディアに、五の橋産婦人科は、会見を開かざるを得ない状況になったのでしょう。院長は、いくぶん堅い表情ながら、「激しい頭痛を訴えていたので、頭部の疾患と判断した」「激しい頭痛のあることを伝えていた」と、墨東病院のコメントに、真っ向から反論していました。私は、墨東も、五の橋もメディアに踊らされているように感じました。妊婦の命がどのように扱われ、そこに関わった家族、医療者は何を感じ、考えたのか。そして、その命とどう向き合ったのかという産科の本質から、報道の視点が離れてゆかなればいいんだけど・・・と思いました。しかし、墨東と五の橋は、その後、「(脳出血の可能性があるということを)言った、言わない」の対立構造に仕立てられてゆきます。

国民の多くがメディアの扇情的なフィルターを通して医療を理解・認識してゆく

 妊婦、母親が子を残して亡くなることは、いつの時代も最大の悲劇です。報道は、その悲劇を医療側の不手際とセンセーショナルに絡めて報道することで、社会の関心を集めようとします。これは、テレビであれば視聴率をとるため、雑誌・書籍であれば販売を促進するための、商業的メディアの手法でもあるのでしょう。ただ、医療の場にいてとても危惧しているのが、国民の多くが、このメディアの扇情的なフィルターを通して、医療を理解・認識してゆくことです。特に、産科関連の報道では、結果を偏重するあまり、その本質にまで切り込まれることはまずはありません。結果は、尊重されるべきです。ただ、医療がどれだけ発展しても、人が人である限り、当然ではあるけれど、全てが喜びの結果に終わるわけではありません。妊娠、出産の時間を通して、赤ちゃんだけでなく、妊婦もその命を落とすのです。結果だけで、評価されたのでは、産科の仕事は成り立たないのです。
 繰り返しますが、私のいう本質とは、結果にかかわらず、ひとりの命がどのように扱われ、家族、そして、関わった医療者は何を感じ、考えていたのか。その命とどう向き合ったのかということです。それぞれの状況で、医療者が誠意をつくしたのかということです。

 メディアは、この本質に切り込めないのではなく、それが、本質だとは思っていない、思えていないのでしょう。なぜならば、報道する者、批判する者に、妊婦、母親の死は、家族にとってだけでなく、医療者にとっても、まぎれもない悲劇であるという意識に欠けていると思うからです。予期せぬ結果に、医療者も傷ついています。お母さんが亡くなったとなれば、関わった医療者も打ちのめさていることでしょう。厳しい状況で、感情を表出しないように働く医療者のあり方にもよるかもしれませんが、医療者がそんな感情を抱いていることは、少なくともメディアの報道を通して、社会、国民に伝わることは期待できないでしょう。
 行政、医療の怠慢、不手際が亡くならなくてもいい妊婦の命を奪ってしまった。その責任は誰に、一体どこあるのか、というストーリーラインが既にできあがっているからです。だから、キャスターや評論家のコメントはもっともらしく聞こえるとしても、実際に現場にいる私たち医療者には、しっくりとこないのです。明日へとつながる言葉として響いてこないのです。

不適切な用語:「拒否」「たらい回し」の言葉がもたらすこと

 翌23日、報道のテンションはさらに上がっていきました。しかし、報道の中での医療の対象で立ち位置、批判の対象であることに変わりはありませんでした。それは話し手が使う言葉にも如実に表れています。この日になって、墨東病院以外の6施設が、搬送依頼を受け入れられなかった理由が少しずつ明らかにされてきました。現場の感覚からは、受け入れができない、すなわち「不能」という感覚なのですが、ほとんどの報道では「拒否」という強くネガティブな言葉が使われていました。特別な意図があり、あえてこの「拒否」を使っているのか、報道用語として、ただ無意識に継続使用しているだけなのか、あるいは、違和感があることを自覚しながら、関心を喚起するために使わざるをえないのかはよくわかりません。きっと、無意識で使っているのではないでしょうか。
 現状に即さないこの言葉だけでも、私たち医療者にとっては、自分たちはどこまで頑張らなくてはならないのかという反発と、これだけ頑張っているのにそれでも評価をされないのかという失望を生むのです。その一方で、社会には医療がとった行為は、冷徹と感じられ、医療側の怠慢に憤りを覚えることでしょう。立ち位置が違うだけで、ひとつの言葉がもたらす意味合いがこれだけ違ってきます。そして、この乖離が医療を提供する側と、受ける側の溝をさらに深め、両者の相互不信を増大させ、現場を混乱させることになります。

 「たらい回し」もこの状況では悪意をもった不適切な表現です。「たらい回し」から連想されるのは、脳出血をきたし瀕死の状態にある妊婦を乗せた救急車が、各病院へと走るけれど、その先々で門前払いされ、次、そして、また次の施設へと移動してゆくというイメージではないでしょうか。ところが、実際は電話で搬送先を探し、受け入れ先が決まるまで、救急車は出発しません。今回、墨東病院を含め6か所の施設から、依頼を断られ、搬送先を決定するまで1時間がかかりました。しかし、救急車が五の橋産婦人科を出たのは、墨東病院への搬送が決定してからです。救急車は都内の6施設を走り回ったのではなく、走ったのは五の橋と墨東病院の間、1kmにも満たない距離でした。時間にしてせいぜい2~3分でしょう。
 真実を公正、公平に伝えるのは、難しいことです。お母さん、赤ちゃんの死、見る者、聞く者の感情を巻き込んでゆく産科報道ではなおさらででしょう。その報道の中で、「拒否」や「たらい回し」といった言葉や、表現は、それだけで全体の状況を歪めてしまうのです。そこから真相、本質にたどりつくことは難しくなります。対応や対策も的外れとなりやすい。私は、改めて周囲が産科へ抱く認識と、現実との間にある厳然とした隔たりと温度差を感じざるをえませんでした。このままでは、産科医療が、関わった医療者の心が、根こそぎ壊されてしまうのではないか・・・。医療が、医療者がこれだけ一方的に叩かれるのは、はたして、正当なのだろうか・・・。この報道によって、一体、誰が幸せになるのだろうか・・・と。

自分が感じていることがどうしたら伝わってゆくのか・・・ 記者へのメール:

 自分か今感じていることを、何とか伝えることができないだろうか。私は以前、TBSのニュース23から流産・死産の時のケアに関しての取材を受けたことを思い返していました。その時は放送に至りませんでしたが、担当の女性記者は、「妊娠・出産は必ずしも結果がすべてではない」、「乗り越えるということは蓋をする、忘れようとすることではないのです。まったくその逆で、忘れないようにして、一緒に歩んでゆくことなんです」、といったケアの奥深さや、可能性について理解し、共感してくれました。彼女だったらわかってくれるかもしれない。23日夜、私は、そのときの思いを彼女にメールで送ることにしました。(以下、一部改変あり)

〇〇さん
こんにちは
ごぶさたしています

番組、いつも拝見させていただいています
昨日来、報道されている
妊婦死亡のニュースについて思うところがあったので
メールさせてもらいました
今回は、産科医療の現状もふまえて、
事実に忠実に報道しようという
番組も増えてきているようですが
多くのニュースの切り口は
いまだにそうではないように感じます

医療の中側は、残念ながら、外から見えるほどの気力や体力を
もはや持ち合わせていないように感じています
外圧によって、批判して変える、変わるのは難しい
10年前とは、違ってきているのです
意見を言う側に、ともに医療を支えようとする、配慮や理解がなければ
そこで働くものの気持ちまでが根こそぎ壊れてしまう
それほど、差し迫っているように思います

医師を増やせば・・
補充をすれば・・
周囲との連携をきちんとればなどの
机上の策だけでは簡単に解決できる状況ではないのです

亡くなられた元文化庁長官の
河合隼雄先生ではないですが
そういう一見もっともらしい意見をいう
専門家やコメンテーターには
「まじめもやすみやすみいってほしい」
と正直、感じます
家族を残して、子どもを残して、妊婦さんの命が失われたことは
人としてとても悲しく、医療者としてはとても残念なことです
ただ、これが、今の医療の現状ですし
妊娠・出産の厳しい一面でもあるのです
人が人である限りにおいて
すべてが喜びの結果になることはありません

ところが、一連の報道の流れを見ていると
視聴者、そして、家族は医療に命を奪われたと感じるのではないでしょうか
そこからは、怒りや、憎悪しか生まれてこないのではないでしょうか

「たらい回し」ははたしてこの状況を表現する
適切な言葉なのでしょうか

命がなくなるのは
医療のせいですか

そんなふうに何かが起これば
他人のせいにするだけでは
大切な一つの命の意味を考え
その命が失われた悲しみを受け入れてゆく
そんな大切なプロセスをたどってゆくことさえ難しくしてしまう
そういう意味からは
家族も報道の被害者になるのではないでしょうか

この問題を改善してゆくうえで
伝える皆さんに、ぜひとも知っておいてほしいのは
緊迫した状況で搬送先を必死で探そうとした
五の橋産婦人科の医師
そして、1人当直であったものの、
その中でできることを必死でしようとした
墨東病院の当直のシニアレジデント
それをバックアップした墨東の産科、脳外科の医師やスタッフたちが
厳しく、絶望的な状況のなかでも
危機に瀕した命から逃げることなく
最後まできちんと向き合い
精一杯頑張りぬいたという事実です

それでも
お母さんの命を救うことはできなかった・・
わかりにくいかもしれませんが
予期せぬ結果を前に
私たち医療者は、関わったものとして、
目の前に無力をつきつけられるのです
それは想像以上にきつく、つらく、残酷なことなのです

結果が悪かったからと一刀両断するだけで
ねぎらいの気持ちのかけらさえないのであれば
彼ら、彼女たちは、
訴訟や逮捕の恐怖におびえながら
仕事への誇りも燃え尽きてしまうことでしょう

そうして、医療者不足の悪循環は繰り返され
医療を再生してゆく希望の灯は
消えていってしまうのではないでしょうか

公平で将来につながる生産的な議論など
できないのではないでしょうか

皆さまにはそんな状況を察してもらったうえで
そんな奥深い、本質のところまで掘り下げていただき
報道を通して、次へとつなげていってほしいと切に願います。

日々、お疲れ様です

産科医 竹内 正人

「地域全体でお産、子育てを何とかしてゆこうという動きがでてくれば、医者も必ず動きます」
TBS ニュース23 2008年10月24日

 私の思いは、再び届いたようでした。彼女も、報道の中にていて、何とはなしに違和感をおぼえていたのだそうです。タイミングもよかったのでしょう。翌24日の夕方、早速、ニュース23のクルーを連れて、私の事務所に取材に来てくれました。カメラの前で、1時間以上は語ったでしょうか。実際に使われたのは、その中のいくつかのフレーズにすぎませんでしたが、24日夜のニュース23で彼女が取捨選択した私の言葉と番組構成は、納得のゆくものでした。
 この日、今回の責任が国なのか、都なのかと、舛添要一厚生大臣と石原都知事の対立が勃発しました。双方が双方を批判するコメントが流れたあとに、私が分娩室で出産直後の家族と会話している模様が流され、同じ地域で働いている産科医と紹介されました。次に、事務所の書棚をバックの絵にかわり、「妊娠・出産でお母さんが亡くなるのは、僕たちにとっても、一番辛いことなんです」「そこに関わっている医師たちは、やりきれない思いがある」「都の幹部が申し訳ございませんでしたと挨拶をせざるを得ないかもしれない。それで、一見落着したようですが、その後、私たち医療者に何が残るかというと、(一生懸命を尽くしたのに、何の評価もない状況に対する)虚無感です。こんなことで、やってゆけるんだろうかという」、と話している映像が入りました。間に、助産師の「助産師も、これまでのように医師に依存せず、自立できるところは自立してゆく必要がある」のコメントがはいった後、再び私が書棚の前で「医療と行政だけではもうどの地域でも解決しない」「地域全体でお産、子育てを何とかしてゆこうという動きがでてくれば、医者も必ず動きます」
 放送は5分ほどの短い時間でしたが、私にとっては大きな一歩でした。番組では使われませんでしたが、私の「たらい回し」のコメントがきっかけとなり、ニュース23では今後、「たらい回し」は使わないようにすることになったと、後で記者が教えてくれました。先に紹介した記者へ送ったメールは、自分のブログに掲載し、出産関連のメーリングリストへも流しました。転載依頼も多く、医療関係者だけでなく、教育、介護にかかわる方々からも共感の声を、多くのお母さん、お父さん、妊婦さん、一般の方々からも、励ましのメールや連絡をいただきました。

予期せぬ夫のコメント 「私は誰も責める気はありません」

 27日夜に、大きな動きがありました。亡くなられた妊婦の夫が厚生労働省で自らの意思で記者会見を開き、妻の命と最後まで向き合った医療者を擁護する言葉を話したのです。「医師や看護師には温かい配慮をしてもらった。私は誰も責める気はありません。たとえば墨東病院の産科医や当直医の方がこれを聞いて傷ついて、たとえば病院を辞めるようなことがあったら、それはもう意味がないことですし、これで産科医が減ったら、本当に意味がないことだと思います。」、墨東病院に搬送された後、妊婦(妻)の意識は戻ることはありませんでした。しかし、入院3日後の10月7日の昼、病院スタッフが病室に子どもを連れてきてくれたのだそうです。30分ほどでしたが、親子3人の水入らずの時を過ごせ、その夜に妊婦(妻)は息をひきとりました。

 夫は、「せっかく私の妻が死をもって浮き彫りにしてくれた問題を、お医者さん、病院、東京都、国に力を合わせて改善していただきたいです。」と、舛添厚生労働大臣に申し入れ書を提出しました。大臣は「あらゆる手をつくして、二度とこういうことがおこらないように努力したいと思っています」とそれを受けました。その後、周産期と救急の連携協議会をはじめとした、組織の垣根を超えた様々なプロジェクトや調査、企画が生まれるなど、実際に、国も、都も動き出しした。現場の医師を直接批判する報道も少なくなった。この日から流れは大きくかわっていきました。

「命の意味」を生むつなぐ人間的なケア

 今までの産科関連の事件では、一応の真相がわかった後でも、家族は医療、医療者への不信、怒りを語り続けてきました。類似の事件がおこるたびに、「教訓が生かされなかったことを遺憾に思う」というコメントが引き出されてきました。ところが、今回は、過去の事件とは全く異なっていました。社会の中で産科を支えようとする歯車がかみ合い動きだしたのは、産科医療崩壊が叫ばれているまさにその時に、首都東京で起こった事件がもたらした危機感、舛添大臣の行動力とリーダーシップ、諸々の要因が重なったことが大きいのでしょう。しかし、その根底には、五の橋と墨東の医療スタッフの患者、そして家族との関わりがあります。絶望的な状況の中で、懸命に医療的な対応をしただけでなく、意識も回復せず亡くなってゆこうとする命に最後まで向き合い、家族とともに見守った。そんな、人間的なケア(ヒューマナイズドケア:humanized care)があるのです。彼らにとっては、それは特別なことではなく、ごく自然なふるまいであったのだと思います。そのふるまい、本人・家族への配慮が、悲しく辛い結果を超えて、家族へと伝わりました。夫は、自らの失意や喪失感と向き合うことさえ憚られる時期に、怒りを前面に表わすでもなく、逆に関わってくれた医療者へ感謝の意を示し、そして、淡々とした口調で、改善を訴えたのです。時を得たこともあるのでしょうが、こうした姿勢で伝えられた意思だからこそ、その思いはより広く深く受け入れられ、多様な要因、組織、個人をつなげて、歯車を回していったのではないでしょうか。その後、夫はこうして産科が動いてゆく状況に「これだけのことをした妻は偉大な存在だと思います」とコメントしました。
 これが命の意味なのかなって、私は感じました。なかなか受け入れられる結果ではないのにもかかわらず、当事者同士が、対立するのでなく、責め合うのでも、批判しあうのでもなく、次へとつながる力となり、それが、お互いにとって救いとなっている。この混沌とした時代に、これからの医療が、医療を超えて私たち社会が進むべき方向性のヒントを与えてくれたのかなって、思いました。皆さんはどう思いますか?

竹内 正人